ジャンル 日本の歴史と文化
オンデマンド
【オンデマンド】戦国武将の書状―関ケ原の舞台裏
外岡 愼一郎(奈良大学教授)

コード | 940204 |
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定員 | 25名 |
単位数 | − |
会員価格 | 受講料 ¥ 11,880 |
ビジター価格 | 受講料 ¥ 11,880 |
目標
・書札礼(しょさつれい、書状のきまりごと)についての基礎知識を身につける。
・歴史史料としての書状の特質についての理解を深める。
・情報力が直接武力以上に合戦の帰趨に影響を与えていた可能性を考える。
講義概要
近年の研究によって、その評価が大きく変わろうとしている関ケ原合戦。研究の最前線を見つめながら、合戦にかかわった人々の、その時、その場の選択がどのように収斂して家康勝利という結果を生み出していくのか、500点を越える関係書状の中から考えてみたい。関ケ原合戦に限らないが、合戦についてのいわゆる一次史料は決定的に不足している。合戦史料として使われることも多い軍記類の多くは勝者の視点で記述され、合戦に参加した人々の記憶もまた勝者の論理で上書きされていく。その意味で書状は極めて良質な一次史料といえる。限られた時数ですべてを紹介することはできないが、合戦の帰趨にかかわる情報を載せる書状を紹介していく。
各回の講義予定
回 | 講座内容 | |
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1 | 関ケ原合戦に関する近年の研究動向 | 初回講義は関ケ原合戦についての基本情報を共有することを目的とします。①現在の岐阜県関ケ原町の地名を冠して関ケ原合戦と呼ばれていますが、その内実は事実上の全国的規模の内乱であり、ともすれば南北朝内乱にも似た様相を示す可能性を有していたこと。②東軍・西軍という名称は後世の呼称で、近年の研究では大坂城の豊臣秀頼を擁したので、石田三成方の軍勢は「秀頼様衆」「上方衆」など呼ばれ、「官軍」であったのに対し、徳川家康方の軍勢は「関東方」などと呼ばれ、「賊軍」の扱いであったこと。③関ケ原の戦場の状況について近年具体的様相が判明してきていること、などを紹介します。 |
2 | 石田三成・大谷吉継のクーデター | 関ケ原合戦の直前まで、家康との権力闘争に敗れた石田三成は近江佐和山で隠居の身でした。三成失脚後、大谷吉継は家康主導に変容した豊臣政権を家康とともに支えていました。三成と吉継、盟友として語られることが多いですが、関ケ原合戦に至る道筋はそれぞれ異なります。ただ、豊臣秀頼の命を受けて上杉景勝討伐のため出陣していた家康に戦いを挑むためには、豊臣政権から家康を放逐する必要がありました。三成・吉継はクーデターを画策し、豊臣奉行衆をも味方に引き入れて毛利輝元を大阪城に入れ、新しい豊臣政権構築に成功します。そのあたり刻々と情勢が動いていく様子を関係書状から把握していきます。 |
3 | 徳川家康は江戸で何をしていたか | 石田三成と毛利輝元が主導する豊臣政権が起動するなか、徳川家康は自力で自身の立場を回復する必要に迫られました。しかし、家康にとっては豊臣政権から放逐されたことで、かえって豊臣政権を攻め滅ぼす好機を得ることになりました。家康は三成・吉継によるクーデターは不当と断じ、従軍していた諸将の支持を得て上杉景勝討伐を中止します。そして家康の指示のもと、諸将は三々五々西に向かい福島正則の居城尾張清須城に集結します。ところが家康自身は江戸にもどったあと、動きません。清須に集結した諸将と家康との緊張した日々を書状からとらえていきます。 |
4 | 黒田如水・長政父子の調略戦 | 関ケ原合戦での徳川家康勝利に貢献した武将たちのなかで、とりわけ調略戦に成果を上げたのは黒田如水・長政父子です。如水は「九州の関ケ原」の主役兼プロデューサーといってよいでしょう。如水は豊前中津にいて九州にいる肥後熊本の加藤清正、豊後杵築の松井康之(細川忠興重臣)、豊後岡城の中川秀成らと連携しながら家康方をまとめます。長政は毛利輝元には従弟にあたる吉川広家の調略に従事し、関ケ原合戦で毛利軍の動きを封じます。如水・長政の動きを彼らの書状から明らかにしていきます。 |
5 | 島津義弘の苦悩 | 関ケ原合戦の華とも称される「島津の退き口」はご存知のことと思います。ただ、義弘が参戦したのはこの時だけで、石田三成からの再三の出陣催促にも応じることなく、敗戦必至のなか大きな賭けに出たといわれています。なぜか。義弘には兵がいなかったのです。実際は数百というところでしょうか。義弘の兄義久や義弘の子で島津家当主となっていた忠恒(家久)は薩摩にいましたが、援軍を送ることには消極的でした。義弘は再三兵を送るよう国もとに書状を届けますが、期待したような返事は届きませんでした。島津のプライドと向き合う戦況。義弘の心情を書状から探ります。 |
6 | 関ケ原合戦までの20日間 | 尾張清須城に集結した「関東方」の諸将(先鋒衆)は8月22日には木曽三川周辺各地で「秀頼様衆」を撃破。23日には織田秀信の居城岐阜城を陥落させ、24日には美濃赤坂(岐阜県大垣市北部)に再び集結します。一方、石田三成・宇喜多秀家・島津義弘らは大垣城に籠城の構えを見せます。家康が江戸を発つのは9月1日。赤坂につくのは14日。両軍ともに同日夜に関ケ原に移動し、翌15日の決戦を迎えます。赤坂終結から決戦の日までの20日間、先鋒衆は何をしていたのか。大垣城の面々は何をしてのか。書状から考えます。 |
ご受講に際して(持物、注意事項)
◆視聴期間は一般申込開始(2024/11/26)から学期終了翌月末(2025/04/30)までになります。一般申込開始(2024/11/26)以降はお申し込みいただけましたら視聴可能になります。
◆この講座は
2024年度 夏期 「戦国武将の書状―関ケ原の舞台裏」 (07/22〜09/02 月曜日、全6回)
で開講した講座のアーカイブ講座になります。
◆途中映像音声の乱れるところがありますがご了承ください。
◆オンデマンド講座のため講義内容に関する質疑は受付けいたしかねます。あらかじめご了承お願いいたします。
講師紹介
- 外岡 愼一郎
- 奈良大学教授
- 神奈川県生まれ。博士(史学)。専門分野は日本中世史。学生時代からの研究テーマは中世の紛争解決。大谷吉継研究が縁で、豊臣政権や関ケ原合戦研究にも幅を広げる。主要著書に、『武家権力と使節遵行』『関ケ原を読む』(以上、同成社)、『大谷吉継』(戎光祥出版)、『越前・若狭武将たちの戦国』(岩田書院)などがある。