ジャンル 世界を知る
中野校
始皇帝の遺詔と兵馬俑の謎
鶴間 和幸(学習院大学名誉教授)

曜日 | 金曜日 |
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時間 | 15:05~16:35 |
日程 |
全7回
・01月10日 ~
02月28日 (日程詳細) 01/10, 01/17, 01/24, 01/31, 02/14, 02/21, 02/28 |
コード | 340318 |
定員 | 24名 |
単位数 | 1 |
会員価格 | 受講料 ¥ 20,790 |
ビジター価格 | 受講料 ¥ 23,908 |
目標
・中国を統一した始皇帝の遺詔がどのようなものであったのか『史記』からさぐる。
・出土竹簡『趙正書』始皇帝の臨終と後継の選定の内容をさぐる。
・兵馬俑の発見と地下軍団の意味を考える。
講義概要
統一後12年、秦の始皇帝は死を前に遺詔(皇帝の遺言)を下した。しかし『史記』を読むと断片しか分からない。葬儀を長子の扶蘇と将軍蒙恬に託するというものである。そもそも遺詔とは、前漢皇帝の事例を参考にすると、後継者の選定、葬儀の次第、みずからの治世の総括を述べて完全なものになる。始皇帝の場合、断片であるのは、後継者をめぐる政争があったからである。扶蘇と蒙恬には偽詔によって死罪が下された。扶蘇に代わって末子の胡亥、蒙恬に代わって王離が葬儀を主宰することになる。兵馬俑8千体は蒙恬の対匈奴戦争の軍隊であり、始皇帝の葬儀に参列した軍隊の再現と考える自説に基づいて、発掘50周年の兵馬俑坑の意味を見直す。
各回の講義予定
回 | 日程 | 講座内容 | |
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1 | 01/10 | 始皇帝の遺詔 | 『史記』に残された始皇帝の遺詔の史料を検討する。みずからの死後に葬儀を長子の扶蘇と蒙恬将軍に託した。始皇帝は最期の巡行の途上に病死する。どのような経路をたどり、どこで亡くなったのか、遺体はどのように都咸陽まで運ばれたのかさぐっていく。 |
2 | 01/17 | 前漢文帝の遺詔 | 始皇帝の遺詔は断片であるが、前漢文帝の遺詔は完全に残されている。始皇帝の遺詔を復元するためにも、文帝の葬儀がどのようなものであり、どのように埋葬されたのか検証する。近年文帝の陵墓の真相が明らかになった。 |
3 | 01/24 | 趙正書の語る遺詔 | 北京大学が入手した漢代の竹簡史料『趙正書』には『史記』とは異なる始皇帝の最期が記されている。『史記』は扶蘇を後継に指名し、胡亥は偽詔によって即位した。『趙正書』は胡亥を後継に定めている。遺詔の内容は異なる。どちらが史実であるのだろうか。 |
4 | 01/31 | 始皇帝陵の建設 | 『史記』は始皇帝が秦王に即位してすぐに陵墓の建設を始めたと記述しているが、近年の出土簡牘史料によれば、始皇16年に酈山陵(始皇帝陵)と陵邑(麗邑)の建設が始まったと記されている。始皇帝陵はどのようにどのような情勢のもとで建設され、始皇帝が埋葬されたのかを検証する。 |
5 | 02/14 | 兵馬俑1号坑の発見 | 1974年に始皇帝陵の東1.5キロの地点で兵馬俑坑が偶然発見された。以来50年発掘が続いている。始皇帝の死後の世界を守る地下軍団という通説に対して、始皇帝の遺体を陵墓まで護送した軍隊である自説から兵馬俑1号坑を検証する。 |
6 | 02/21 | 兵馬俑2号坑の発見 | 2号坑には1号坑にない騎馬隊と戦車隊が見られる。どのような軍団であったのか、蒙恬将軍の対匈奴戦争の軍隊として検証していく。 |
7 | 02/28 | 兵馬俑3号坑の発見 | 3号坑には実戦の軍隊ではなく、儀仗部隊である。誰を迎えた儀仗兵であったのかをさぐる。始皇帝の遺体を陵墓に迎えたのではないかという自説を展開する。 |
講師紹介
- 鶴間 和幸
- 学習院大学名誉教授
- 1950年東京都生まれ。東京教育大学文学部卒業後、東京大学大学院人文科学研究科博士課程単位取得満期退学。博士(文学)。専門は中国古代史。著書に『秦帝國の形成と地域』(汲古書院)、『ファーストエンペラーの遺産 秦漢帝国』(講談社)、『始皇帝陵と兵馬俑』(講談社)、『人間・始皇帝』(岩波新書)、『始皇帝の地下宮殿』『始皇帝の愛読書』(山川出版社)『始皇帝の戦争と将軍たち』(朝日新書)がある。始皇帝研究のかたわら兵馬俑展の監修をたびたび行った。また始皇帝に関する中国ドラマの字幕や映画キングダムの中国史監修を担当する。